「毎月固定残業代を払っているのだから、後から残業代を請求されることはないはずだ」。そう考えていた会社に、ある日、退職した社員の代理人弁護士から、高額な未払い残業代の請求書が届く。固定残業代(みなし残業代)は、法的な要件を満たして有効と認められれば、残業代の支払いに充てられます。ところが、ひとたび「無効」と判断されると、これまで払ってきた手当が一切残業代として認められず、請求額が想定を大きく超えて膨らむことがあります。
固定残業代が有効になる2つの条件
最高裁判所の判例を踏まえると、固定残業代が有効と認められるには、2つの要件を満たす必要があります。通常の労働時間の賃金にあたる部分と、割増賃金にあたる部分を明確に区別できること(明確区分性・判別可能性)。そして、その手当が実質的に時間外労働等の対価として支払われていること(対価性)です。
判別可能性については、最高裁平成24年3月8日判決(テックジャパン事件)、平成29年7月7日判決(康心会事件)、令和2年3月30日判決(国際自動車事件)などが、判断の枠組みを示しています。対価性については、平成30年7月19日判決(日本ケミカル事件)です。さらに最高裁令和5年3月10日判決(熊本総合運輸事件)では、割増賃金の総額を先に決め、その内訳に計算上の区別と名称を付けただけの賃金体系について、手当の名称や算定方法だけでなく、賃金体系全体の中で時間外労働等の対価として位置づけられているかが問われました。
固定残業代の定めが有効でも、実際の残業時間で計算した割増賃金(労働基準法37条)が固定残業代の額を上回る月には、その差額を別に払わなければなりません。
無効と判断されやすい定め方
固定残業代の有効性は、手当の名称や金額の多寡だけでは決まりません。雇用契約書、賃金規程、給与明細の記載、さらには会社による説明の内容や実際の労働時間の状況などから、その手当が時間外労働等の対価として支払われるものとされているか、通常の賃金の部分と区別できるかによって判断されます。
たとえば、「月給30万円(ただし残業代を含む)」とだけ書かれていて、基本給と残業代の内訳が分からない。「営業手当」「業務手当」といった名目で一定額を支給しているが、それが時間外労働の対価であることや、何時間分にあたるのかが、規程や契約書から読み取れない。先に月給の総額だけを決めておき、そこから形式的に算出した基本給を差し引いた残りを、「調整手当」「残業手当」と呼んでいるにすぎない。こうした定め方は、無効と判断されやすい典型です。
無効になると、残業代はどう計算し直されますか
固定残業代が無効と判断されると、これまで固定残業代として払ってきた手当は「割増賃金の支払い」と認められません。むしろ、割増賃金を計算するときの土台になる「基礎賃金」に組み込まれ、そのうえで、実際の残業時間分の割増賃金が全額未払いだとして再計算されます。割増賃金の算定基礎から除外できる手当は、家族手当や通勤手当など7種類に限られていて(労働基準法37条5項、同法施行規則21条)、無効とされた固定残業手当は除外できないからです。
数字で比べます。月給30万円(基本給25万円、固定残業手当5万円[約25時間分相当])、月の所定労働時間は160時間、実際の時間外労働は月40時間(深夜・休日労働なし、割増率1.25倍)だったと仮定します。
固定残業代が有効なら、基本給25万円を160時間で割った基礎時給は1,562.5円です。これに1.25と40時間を掛けると割増賃金は78,125円で、すでに払った固定残業手当5万円を引いた「月28,125円」が不足額になります。無効なら、手当5万円を含めた30万円を160時間で割るので、基礎時給が1,875円に跳ね上がります。これに1.25と40時間を掛けた「月93,750円」が割増賃金で、既払いの5万円は一切差し引かれず、93,750円の全額が未払いとして扱われます。
1か月あたりの差額は65,625円。会社が払うべき未払い額は、約3.3倍に膨らみます。これが3年間(36か月)続けば、有効なら1,012,500円で済むはずの差額が、無効と判断されただけで3,375,000円に達します。「払ったはずの5万円が残業代として数えられないうえに、時給の単価まで押し上げてしまう」。この二重の影響が、請求額を大きく膨らませる仕組みです。
請求額に上乗せされるもの
未払い残業代の元本のほかに、「遅延損害金」と、裁判等で請求された場合には「付加金」が上乗せされる可能性があります。遅延損害金は、在職中の未払い分なら、民法上の法定利率である年3%です(民法404条、419条。令和8年4月以降も年3%)。退職した社員への未払い賃金には、退職日の翌日から年14.6%という高い利率が適用されます(賃金の支払の確保等に関する法律6条、同法施行令1条)。ただし、支払義務の有無について合理的な理由に基づき裁判所等で争っている期間は、この年14.6%の対象外です(同法施行規則6条4号)。
裁判になれば、裁判所は労働者の請求により、未払い割増賃金と同額までの「付加金」の支払いを命じることができます(労働基準法114条)。付加金を命じるかどうか、いくらにするかは裁判所の裁量です。すべての事案で満額になるわけではありませんが、会社にとっては大きなリスクです。付加金の請求期限は、違反の時から当分の間3年以内(同法附則143条2項)。賃金請求権そのものの消滅時効も、各給料日の翌日から当分の間3年です(同法115条、附則143条3項)。
見直しは、4つの書類を同じ内容にそろえることから
将来のトラブルを防ぐには、雇用契約書(労働条件通知書)、賃金規程、毎月の給与明細、日々の勤怠管理の4つを、矛盾のない同じ内容にそろえます。
雇用契約書には、固定残業代を除いた基本給の額、固定残業代の対象となる時間数と金額、固定時間を超えた分は別途割増賃金を支払う旨の3点を書きます。厚生労働省は、求人票の段階からこの3点を明示するよう求めています。賃金規程では、その手当が時間外・休日・深夜労働の対価として支払われるものだと、条文の上で明確に定義します。給与明細は、基本給の欄と固定残業手当の欄を分けて印字し、対象の時間数も分かるようにします。勤怠管理も欠かせません。固定残業代を導入していても、毎月の実労働時間を正確につかみ、予定の時間を超えた月は差額を精算して払います。
すでに在籍している社員の賃金体系を見直すときは、就業規則の変更だけで労働者に不利益な労働条件へ一方的に変えることは、原則としてできません(労働契約法9条・10条)。制度変更の趣旨を丁寧に説明し、個別に書面で同意を得る手順を踏んでください。
請求を受けたら、まず何をしますか
最初に、対象の期間のタイムカードやPCのログ等の勤怠記録と、賃金台帳を保全します。散逸させないことが先です。そのうえで、月ごとに、固定残業代が「有効と認められる場合」と「無効とされた場合」の2通りで、未払い額を試算します。賃金台帳等の記録の法定保存期間は、当分の間3年です(労働基準法109条、附則143条1項)。
請求を受けたあとに過去の書類を書き換えたり、説明なしに給与明細の名称だけを変えたりする対応は、裁判等で不利に働くので避けてください。正確な試算をしてから、交渉の方針を決めます。
弁護士に相談すると
現在使っている雇用契約書、賃金規程、給与明細、勤怠資料を拝見するところから始めます。現行の固定残業代の制度が法的に有効と認められる見通しがあるか、有効の場合と無効の場合それぞれで払う額がいくらになるかを、試算します。すでに元社員等から請求を受けているなら、回答書の作成から、代理人としての示談交渉、労働審判や訴訟への対応まで引き受けます。請求を受ける前の予防の段階なら、判例の基準に沿った賃金規程や契約書式の改定を進めます。
個別の事情で判断が分かれるため、結果はお約束できません。そのうえで、会社の財務リスクを抑えるための現実的な解決策を検討します。
よくあるご質問
Q. 手当の名前が「営業手当」でも、固定残業代として認められますか?
手当の名称だけで、有効か無効かが直ちに決まるわけではありません。その手当が実質的に時間外労働等の対価として支払われているといえるかどうかを、契約書や賃金規程の記載内容、会社による手当や割増賃金についての説明、実際の勤務実態などから総合的に判断します(日本ケミカル事件)。無用な疑義を避けるために、規程と契約書には、「時間外労働の対価である」という位置づけと、対象の時間数・金額を明記しておきます。
Q. 固定時間を超えた分を毎月精算していれば、無効にはなりませんか?
毎月精算していても、それだけで有効になるわけではありません。判別可能性と対価性が満たされなければ、無効と判断されることがあります。有効な場合でも、固定時間を超えた分や、計算額に足りない分は払う必要があります。
Q. 管理職には、固定残業代を払っておけば足りますか?
足りるかどうかは、肩書きではなく実態で判断されます。労働基準法41条2号の管理監督者にあたれば、時間外・休日の割増賃金は不要です。ただし、41条が除外するのは労働時間、休憩、休日の規定で、深夜(午後10時から午前5時)の割増賃金(37条4項)は、管理監督者にも必要です。
会社側の労務のご相談
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